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7月 16

アイズワイドシャット


伊集院光:トム・クルーズとニコール・キッドマンが出演していて。トム・クルーズがセレブな、お医者さんで男前でお金持ちで。子供一人で、傍目からは幸せそうに見える夫婦なんだけども。

町山智浩:はい。

伊集院光:薬物を吸引したことで、ニコール・キッドマンが変なことを言い出すんですよね。夫婦間ではイヤなこと。「昔、みんなで旅行に行った時に、横にいた将校を見ていて、あの人に口説かれたら、寝たかもしれないわよ」みたいな。

町山智浩:そうなんです。そういう告白をするんです。

伊集院光:トム・クルーズが、それに凄いヤキモチをやいて。

町山智浩:「だったら、俺もしちゃうぞ」と。

小林悠:あんなこと、言わなくていいですよね。

伊集院光:ふふ(笑)まさにその通りで、あんなこと言わなければ良い。でも、それで浮気しちゃうなら、映画として分かるんです。ところが、トム・クルーズはしてしまいそうなシチュエーションには見舞われるんだけど、できないというか、しないんです。

町山智浩:はい。あそこでセリフの中で、「女というのは浮気しない生き物だと思っているでしょ?」っていうんです。「バカじゃないの?そんなことないわよ」って話をするんです。引き金を引かれてしまうんですね。「俺もモテたよな」みたいな気持ちになるわけですね。

伊集院光:「そんなこと言うんなら、俺も…」って気持ちになりますよね。

町山智浩:それで、夜のニューヨークに迷い出て行って、最初はコールガールの部屋に行くんだけど、ぎりぎりで出来ない。それで次は貸し衣装屋に行くと、少女が相手をしてくれそうになるんだけど、出来ない。その後、噂を聞きつけて、今度は巨大なそういうことをするパーティーがあると聞きつけるんですね。

伊集院光:巨大な、大金持ちが集まるパーティーですよね。

町山智浩:そこに潜入するんですね。いい感じになるんだけど、相手の女の子に「殺されるわよ。今すぐ、出なさい」って言われるんですね。翌日になって、「あの体験はなんだったんだろう?」って思って、前の晩に行った場所に行くと、全然そんなことになってない。

伊集院光:はい。

町山智浩:最初に会ったコールガールは、HIVに感染しているということが分かるんですね。しかも、昨晩の場所で自分を助けてくれたらしい女性が、遺体で発見されるんですね。調べれば調べるほど、本当にあのパーティーが行われているか分からなくなる…ということなんですね。

『アイズ・ワイド・シャット』の原作『夢小説』


町山智浩:『アイズ・ワイド・シャット』の原作は、『夢小説』って言うんです。夢だって言っている。

小林悠:どこからどこまでが、夢なんですか?

町山智浩:それが分からない。どこにも夢だってことは書いてないのに、タイトルだけ『夢小説』って書いてあるんです。

伊集院光:ヒントに、「謎解き映画」「胡蝶の夢のような部分がある」ってところまでヒントをもらってたから、そんなことは頭の片隅にあるんですけど、どこからどこまでが夢かは分からないですよね。

町山智浩:そう。完全に夢ですよ、とはしてなくて、本当にあったかのようにもしている。だから、どちらかは分からないんです。見てても。

伊集院光:はい。

町山智浩:原作小説は、19世紀のウィーンで書かれたものなんですが。

伊集院光:そんな古いんですね。

町山智浩:アルトゥル・シュニッツラーという作家で。彼の友人にジグムント・フロイトという人がいて。心理学者ですけども、当時、『夢理論』というものを発表したんです。

伊集院光:はい。

町山智浩:フロイトの夢理論というのは、「夢はデタラメなものではなく、本人の無意識の欲望が夢の中に出てくるんだ」と。

伊集院光:はい。

町山智浩:起きている間は、重石が乗っている状態。寝るとその重石がどくので、思ってることや気づいていないことが出てくるんだ、と。それを発表して、その理論を小説にしたものが『夢小説』なんです。

伊集院光:へぇ。

町山智浩:夢かもしれないけど、現実の欲望であると。何度も浮気をしようとすると、失敗するというのは、夢によく出てくるんですね。夢の中で、夢が叶いそうになると、直前で失敗するんです。夢はやったことしか出てこないから。

伊集院光:ほぉ。

町山智浩:食べてみたいものがあったとして、それを食べようと思っても、味が分からないから、食べられないんです。

映画に散りばめられた手がかり


伊集院光:そこまで考えると、トム・クルーズ愛せるね。アイツは、根っこから浮気ができてないヤツで。

町山智浩:出来ないんですね。あの秘密パーティーの中で、合言葉が「フィデリオ」って言葉が出てくるんですけど、「フィデリオ」って言葉は、忠実って意味で、浮気しないって意味なんです。

伊集院光:ベートーヴェンのオペラかなんかで。

町山智浩:タイトルなんですね。それは、政治犯になってしまった夫を、忠実な妻が男装して潜入し、夫を助けようとする話なんです。

伊集院光:はい。

町山智浩:あれは、浮気をしようとすると、パッと「忠実」という言葉が入ってくる、という表現なんです。

伊集院光:分かりやす過ぎる映画は、面白くないじゃないですか。でも、分からない映画は、ポカーンってなるじゃないですか(笑)

町山智浩:えぇ(笑)

伊集院光:僕の中で、『アイズ・ワイド・シャット』解説が無いと分からないですね。

町山智浩:分からないんです。僕も最初は分からなかったんです。

伊集院光:あまりに手がかり無いじゃないですか?

町山智浩:手がかりはいっぱいあるんです。新聞を売ってて、その見出しが「命からがら助かった」と書かれてるんです。あれはトム・クルーズが、命からがら助かった状態のときに、なぜか新聞の見出しがそうなっているということで、現実ではないということを示しているんですね。

伊集院光:はぁ~。

町山智浩:奥さんの名前がアリスで。『不思議の国のアリス』のキャラ、アリス。「夢を見た」という意味も込められているんです。

伊集院光:なるほどね。

『アイズ・ワイド・シャット』のテーマ・メッセージ


町山智浩:映画自体は分かりにくいんですけど、映画のメッセージ自体は普通のメッセージで、ものすごく分かりやすいんですね。言いたいことは。

伊集院光:え?

町山智浩:タイトルの『アイズ・ワイド・シャット』という意味は、「目を大きく閉じて」、という意味なんですけど、アメリカの結婚式のときにオッサンがよく使う言葉がもとになってるんです。

小林悠:え?

町山智浩:日本の「3つの袋」のような、「Keep your eyes wide open before marriage, and half shut afterwards.(結婚前は目を十分開け、結婚後は目を半分閉じよ)」という言葉なんです。これは、結婚前は大きく目を開いて結婚相手を決めなさい。でも、結婚後は、目を半分閉じておいた方が良い、つまりは妻や夫のことを根掘り葉掘り聞きすぎると、結婚はうまくいかないよ、という意味なんです。

伊集院光:へぇ~。

町山智浩:いかにもオッサンが言いそうなことでしょ?(笑)でも、『アイズ・ワイド・シャット』は、目を見開いてる状態で、見ちゃいけないんですよ、本当は。

伊集院光:なるほど。ああいうものまで見ちゃってるのは不健全というか。

町山智浩:そうそう。互いにある程度の秘密はあるんだから、そこには触れないで、という夫婦の秘訣みたいなものです。

伊集院光:俺は夫婦で見なくてよかったなぁ、って(笑)

町山智浩:夫婦で見た人は、凄く気まずかったでしょうね。キューブリック監督はこの作品を遺して亡くなってるんですが、奥さんが言ってるんですね。「この映画は、キューブリックの遺言なんだ」と。この映画の最後のセリフは、「FU○K」なんですね。

伊集院光:そうだ。

町山智浩:それはお互いに夫婦の欲望を知ってしまって、浮気しないとかそういう幻想はないんだ、と分かってしまった…どうしよう、という時に、奥さんは「2人でいるんだから、やることは1つでしょ」と。そういうことで、終わるんですね。

小林悠:はい。

町山智浩:結婚式の挨拶で、「ケンカしたらすぐに、する」という(笑)

伊集院光:ふふ(笑)

町山智浩:結婚式の格言ですよ(笑)

伊集院光:さすが町山さんだなっていうのは、もう一度観たくさせる解説ですよね。

町山智浩:実は、キューブリック監督の「2011年宇宙の旅」という映画ともよく似ていて。「2001:A Space Odyssey」って原題なんですけど、Odysseyっていうのはギリシャのトロイの木馬を発明した実際の人物ですけど、国に戦場から帰ろうとするんですけど、美女に誘惑されて帰れなくなる。でも、美女の誘惑を振りほどいて、何年もかけて帰ってくる、という人物なんですね。つまり、この話もそうなんですね。

伊集院光:へぇ。

町山智浩:それを、宇宙の旅、ということで宇宙版の話にしたんです。そして、『アイズ・ワイド・シャット』っで、夫婦の話に持ってきて映画人生を終わらせた、というところが非常に面白いなぁって思うんですね。

伊集院光:こんだけ解説してもらって、なんですが、小林悠アナが言った「あんなこと言わなくていいじゃん」ってことですよね。夫婦であんなことを言うと、おかしなことになるじゃん、と。

町山智浩:そうなんです。

伊集院光:そこが、まさにど真ん中のテーマにある、と。

町山智浩:はい。

小林悠:それで良かったんですね。

フィデリオ

浮気しない。忠実。

ヨブ記

 旧約聖書はどこもおもしろい。いや、考えさせられる。
 モーセの出エジプトやノアの洪水やソロモンの伝説のように、歴史と虚構がどのように交じったかを読むのもスリルがあるし、ユダヤの預言文学のレベルを他の古代宗教とくらべるのも興味が尽きない。イザヤ書・エレミア書・エゼキエル書を読んだときは、「そうか、これがユダヤの言霊か」と合点した。
 その一方、約束の地カナーンを誓った民族共同体イスラエルがどのようにユダヤ民族のなかの理念として定着していったかとか、古代ヘブライ社会やヘブル語がどんな表現レベルをもっていたのかということを見るのも、興奮させられる。
 しかし、文学的にも哲学的にも、また神学的にも心理学的にも共通する深さをもつ問題を鋭く提示しているところというと、なんといっても『ヨブ記』なのである。ゲーテはこれをもとに『ファウスト』を発想したし、ドストエフスキーはここから『カラマゾフの兄弟』全巻を構想した。

 現行の旧約聖書は「律法」「予言者」「諸書」の3部構成になっている。しかしながら、「モーセ五書」とか「律法」(トーラー)とよばれてきた『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』を読むだけでは入口しかわからない。
 「諸書」と「外典」が異様なのである。異様なだけではなく、広くヨーロッパ史における人間精神の考え方の基層に突き刺さっている。たとえば「混沌から勝利する」というイメージといえば、それは必ず諸書『エステル書』の物語をさすわけだし(ラシーヌの悲劇はここから派生する)、デボラといえば、その名を聞いただけで、これは外典『ユデト書』の勇敢な女性デボラのことなのだ。
 そういう意味で、『ヨブ記』の主人公ヨブは、旧約聖書のなかではカインの問題とともに最も哲学上の重要課題を投げかける人物になっている。ぼくのようなクリスチャンじゃない者にとっても、カインとヨブの名はいまだにぼくの背中のどこかに引っかかった「うしろの百太郎」なのだ。

 『ヨブ記』は「諸書」の中の『詩篇』『箴言』につづいて収録されていて、全体は42章で構成されている。そのうちの1、2章と最終章の一部が散文になっているほかは、すべてが韻文(詩文)である。したがって暗示力がすこぶる高い。
 散文部分は聖書研究者のあいだでは「枠」とか「民間本」とよばれる。おそらくは民間伝承そのままを編集した箇所である。ここではヨブは敬虔な忍従の人として描かれる。きっとイスラエルの地でこの物語を記録した”編集者”の意志が反映したのであろう。
 ところが韻文の部分では、ヨブは3人の友人と果敢に論争し、神に疑問をもち、ついには神に反抗する姿勢すら見せる。この互いに矛盾するようなヨブの二つの立場を描いているところが『ヨブ記』を最も魅力的にしているゆえんで、そのため『ヨブ記』はずっと智慧文学の原典ともいわれてきたのだが、どうして、智慧などというものよりずっとハードな問題を扱った。

 ヨブの名は『エゼキエル書』にも出てくる。が、これは主人公の名を”編集者”が借りただけで、とくに物語と関係はない。
 もともとヨブは裕福で正直な名士で、「ウツ」の地(おそらく死海の南のエドム)に住んでいた。家族も土地も家畜もじゅうぶんにいた。聖書は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けてきた」と書く。
 そのヨブの信仰を神はさまざまな試練によって試すのだが、ヨブはことごとく信仰の堅固なところを証明してみせる。
 そこで神は悪魔(サタン)を呼んで、ヨブの財産を傷つけたらどうか、体を傷つけたらどうかと言う。悪魔が巧みにヨブの体に悪腫をつけると、ヨブは体中を掻きむしって苦しむのだが、決して神を恨まない。見かねた妻が「いつまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」と言うと、ヨブは「愚かな女だ」と悲しむばかりなのである。
 ヨブが苦しんでいるという噂が広まり、3人の友がやってくる。友人たちはヨブが本人と見分けがつかない苛酷な姿になっているのに衝撃をうけ、7昼夜を一緒にするものの、一言とて会話が交わせない。
 ここまでが「序」にあたる序曲で、ここにヨブの詩が入る。「私の生まれた日は消えうせよ」という有名な呪歌である。ここから壮絶なヨブの疑念が燃え上がる。

 次に「破」に入る。
 友人たちはヨブを慰めるために、「神は絶対に善人を苦しめることはないはずだ」「罰せられるのは悪人だけだ」などと説く。これは当時のユダヤ教の古典的な教訓である。きっとそのような教えが流布していたのであろう。しかしヨブは、そのような古典的な教えをしだいに納得できなくなっている。
 そこで友人たちは、たしかに善人でも苦難にあうことがあるだろうが、そもそも完全に潔白で汚れがない者なんているはずもなく、おそらく天使だって完全ではないはずなのだから、それに加えて人間は悪に染まりやすいのだから、神を信頼しつづけて謙虚に神に訴えればいいのではないかと勧める。
 ヨブは自分がまったく悪行をはたらいていないのに、神がなぜ試練を与えたかが理解できないので、友人の言葉には同意できない。そういうヨブの態度を見て、我慢できなくなった3人のうちのビルダドが「いつまでそんなことを言っているのか。お前の口は嵐のようだ。神が裁きを曲げられるか、全能者が正義を曲げられるか」と罵る。他の友人もヨブを批判する。

 友人たちはヨブが苦難にあっているのは、ヨブが何らかの罪を犯したにちがいないからだと見ているわけである。けれどもヨブはその罪の自覚がないらしい。そこで、エリファズはいくつもの無慈悲な行為をあげ、ヨブに濡れ衣を着せる。
 よくあることである。相手が小さな罪を認めないのなら、もっと大きな罪を付加させたくなるのは、大半の人間がもつ感情であり、かつまたマスメディアや批評家がもつ態度というものだ。
 ヨブはこれらの暴言に耐えられなくなって、「君たちは慰めのふりをして苦しめている」「役にたたない医者だ」と、友人たちを詰(なじ)る。「黙ってくれ、私に話をさせてくれ。たとえどんなことがふりかかってもいい」という絶叫だ。
 驚いた友人たちは、ヨブにともかく黙って試練に耐え、毅然としていけばいいではないかと、なにやら懐柔策に出る。ここでヨブの断固とした一撃が出る。「私が話かけたいのは全能者なのだ。私は神に向かって申し立てたい」。
 この「神への申し立て」が可能なのかどうかという一点が、『ヨブ記』の最初の神学的逆上になる。
 ヨブはすでに何度も神に跪き、もし自分が間違っているなら、そのことをわからせてほしいと懇願してきたのである。ヨブは自分が公平に裁かれているのなら、その報いをうける覚悟はあったわけである。けれども神は沈黙したままにいる。なぜ神は、主は、何も言おうとしないのか。
 この疑問はものすごい。
 それどころか、ここからがさらに重大な社会の成立の仕方そのものに対する大問題になるのだが、もし神が告発者であって、かつ裁判者であるとしたなら、いったいこの世の誰がヨブを裁けるのかという「大疑」が生じてくる。つまり、ここには「もはや上訴のない社会」という問題が立ちはだかってくるわけなのだ。

 どうだろうか。
 ここまでで、誰が『ヨブ記』が提訴しつつある問題に「解」を思いつけるだろうか。自信があるなら、挑戦してもらいたい。
 そのうえで言うのだが、今日の欧米世界の底辺にあるユダヤ=キリスト教社会がこの問題を解決するには、実はこの問題に目をふさぐしかないはずなのだということに気がつかれたい。

 さて、こうして「序・破」をおえた『ヨブ記』はいよいよ「急」にさしかかる。
 ここではヨブが「神はどこにいるのか」「遠いところにいないのなら、自分とともにここに来てほしい」、そして「自分は神とともに裁きの場に出たい」とさえ言う。しかしそれでも神は沈黙したままなのである。
 こうしてヨブは絶望の究極に向かっていく。悪魔を非難するのではない。神に絶望するのだ。そしてすべての人間との交わりを避けて、すべてが自分を放っておいてほしいと願う。これはまさに絶望の精神の行方の暗示というものである。けれども、ここがユダヤ教的なところなのだが、ヨブは絶望しきれない。自害もならず、遁世もない。そして、それならせめて「自分に対する告訴状」を神が出してくれることを、一縷の望みに託すことになる。
 ここでエリファズ、ビルダド、ツォファルの会話を聞いていた新たな登場人物である青年エリフが出てきて、ヨブの独白を聞く。これが長いのだが、意外な結末はその直後に訪れる。嵐の中から主ヤハウェの大音声がついに聞こえてくるのである。

これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて、
神の経験を暗くするとは。
男らしく腰に帯せよ。
わたしはおまえに尋ねる。わたしに答えてみよ 。
わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。

 これが神の第一弁論といわれる開始であった。
 ヨブは必死に答えようとするのだが、答えはまとまらない。つづいて神の第二弁論が雷鳴のごとく降り落とされる。

全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
  神を責めたてる者よ、答えるがよい。

 ヨブは神の臨在に圧倒され、打ちのめされる。そして「急」は幕を閉じ、「終」になる。
 ヨブは言う、「私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今や私の眼があなたを見たのです。それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます」。こうして終曲はふたたび散文に戻って、3人の友人には神の訓戒がくだされ、ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになる。
 ヨブは7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、なんと140歳まで生きながらえた。

 なんと恐ろしい物語だろうか。なんと答えのないレーゼドラマだろうか。
 しかも、この『ヨブ記』を書いた”編集者”の名も出自も、これまであらゆる聖書研究者が”調査”をかけながらも、ついにまったく見当がつかないままなのである。そして、『ヨブ記』の悪魔はメフィストフェレスとなり、神と悪魔の両者を含む超越者はスタヴローギンとなり、ヨブは馬鹿なイワンとも、ゴッホの向日葵とも、ユダヤ・キリスト教社会の未解決の象徴ともなっていったのだ。
 ヨブの問答。
 これは、少しでも神と交わりたい者が必ず出会わなければならない神の教えなのである。

胡蝶の夢

「荘子」の中に有名な夢の話があります。とてもファンタスティックな味わいのある文章ですので、まず読み下しを見ておきましょう。

昔者(むかし)荘周夢に胡蝶となる。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり、自ら喩(たのし)みて志に適(かな)えるかな。周たるを知らざるなり。俄然として覚むればすなわち■■然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶なるか、胡蝶の夢に周なるかを。周と胡蝶とは、すなわち必ず分あらん。これを物化という。

 周というのは、荘子の名です。荘周は夢の中で蝶々になってひらひら飛んでいたわけですね。なんて気持ちよく楽しい夢でしょうか。そのときは自分が荘周であることもすっかり忘れて楽しんでいた。ところが目を覚ましてみれば、自分はまごうかたなく荘周です。しかし、そこで荘子は思います。荘周が夢の中で蝶々になったのか、それとも蝶々が見ている夢の中で今自分は荘周になっているのだろうかと。
 なにか童話か御伽噺のようですが、この話は「斉物論」の中で語られています。つまり、その背景には万物斉同の境地があるわけです。ですから、この話は自分がうんこになった夢であったとしても(ごめんなさい)基本的には同じことなわけです。まあ、たまたま荘子は蝶々になった夢を見たということにしておきましょう。
 荘周であることも蝶々であることも究極的にはひとつのことなのですが、現実的にはハッキリ区別されます。覚はあくまで覚であり、夢はあくまで夢です。あるいは逆に今ある荘周が蝶々の見ている夢であったとしても、やはり蝶々と荘子が区別されることに変りはありません。物には必ず形があることで区別される。これを「物化」というふうに荘子は言っています。化して物となるわけですから元はひとつであるという意味を含んだ言葉です。
 この物化ということは他の箇所でも出てくる言葉で、たとえば秋水篇には「聖人の生くるや天行なり。死するや物化なり」とあって、夢と現実がここでは、生と死に置き換えられています。
 万物斉同の境地にあっては、夢と現実、生と死も区別がなくなり、すべてが包括されるものではありますが、現象的にはそれぞれ「化」の現れとして姿形を持っている。死後の世界のイメージについては詳しいことは語っていませんが、すべてが霧散して融合してしまうようなものではなく、やはり何らかの形を持っているものと考えられるのであります。

虚虚実実

互いに策略や手段を尽くして戦うこと。また、うそとまことを取り混ぜて、相手の腹を読み合うことにもいう。▽「虚」は守りの弱いところ、「実」は守りの堅いところ。実を避け虚をついて戦う意。「虚」「実」のそれぞれを重ねて、意味を強調した語。

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